ナイトドライビング

ただいま一山と二山越えて、大阪生活戻り。
息子1歳11ケ月。先月はゴキゲンに1歳10ケ月になったやいなや、母(わたし)が”妙にいない”日々を送っていた息子。舞い戻ってきた母に軽く固まり、しかし、すぐに「かぁか!」と50回くらい連呼していた。
背が伸びていた。少しほっそりしていた。そしてまた手が大きくなっていた。

今回の京都療養生活には息子も同行していた。
病み上がりのわたしには、生まれ育った京都の空気と、家族の呼吸が必要だった。入院中の日々を支えてくれていた夫には、大阪での仕事時間と深呼吸が必要だった。大阪駅から特急サンダーバードに乗って京都へ行く足どりは久しぶりに軽快だった。

ところがだ。京都生活も半ば、ついに何かを爆発したかのように今度は息子が高熱と下痢に襲われた。大阪戻りを延期に延期を重ね約1週間、家族総出でそれと闘っていた。前半はよく泣き、「かぁかかぁか」と泣いては沸騰しそうな息子を抱っこし続けていた。かろうじて睡眠と水分だけはしっかり取れていたものの、日に日に痩せていく息子の身体。約1キロの減。救急病院にも小児科にも連れていくが、収まらない下痢に苦戦した。いつの間にか自分の「療養」は吹き飛び、いつの間にかそれは「試練」になっていた。

だけども何かがとても静かで豊かだった。

わたしの母はわたしたちの身の回りのすべてを担ってくれていた。
夜の寝かしつけは毎日毎日、わたしの父が車を出してくれていた。
ナイトドライビング。
母はそんな風に言っていた。

御所の南から鴨川を越えて、川端を北上し、北山で西に折り返し、鴨街道を南下する。横手に広がる、京都の暗闇と東山の稜線の美しさに父とともに感動しているあたりで、息子は寝息をたてていた。

幼い頃、暗闇が怖いわたしは、すぐ横に寝ていた父によく「オトウサン、テ、ツナイデ。」と囁いては、布団の中に手を入れていた。暗闇の向こうにうっすらと続く柔らかな東山の稜線は、父のその手をそっと、思い出させてくれたのだった。

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ナースコールが押せなくて

ただいま療養生活in京都。
毎日次から次へと頂戴する励ましの便りに、涙腺が忙しい。
ありがたいのと、恥ずかしいのと、情けないのとでこれまた忙しい。

情けないついでに、もうひとつ。
なんであんなに押せないんだろう。
ナースコール。

ぎりっぎりまで我慢して我慢して、満を持して押していた。
とにかく今回一番苦しかったのが鼻がふさがってかつ咳が出た時の呼吸困難。それを緩和するためのお薬を持ってきてもらうにはコールが必要だった。3時間毎にふさがり始めているのが分かるのに、なぜだかスタッフワークを気遣って、もうちょっと後かなとか。他にも点滴が落ちてないとか、点滴がちょっと痛いとか、発熱発汗で着替えがほしいとか。どれもこれもちょっと遅くて、結果良くなかった。喘息発作が起こりそうになるし、点滴は30分のところ1時間半かかるし、着替えが遅くて乾き始めていたし、痛かったところは点滴が漏れて硬結していた。

ナースコールだけじゃない。結局何だって、ぎりぎりまで我慢する。
我慢して良いこともあれば、悪いこともある。
友にも親にも夫にも何百回と言われ続けているのに。情けない話だ。

シャッターだけじゃない。ナースコールを鮮やかに押せる。
そんな大人に、わたしはなりたい。

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白いカーテンレール

仕事場のベランダは花の季節が終わりを告げて、
日々みどりが濃くなっているよ。

さきほど、そんな風にラボマン・オグラユウジくんから便りが入った。
いつの間にか、もうすぐ梅雨の季節に入るのだね。

再び入院していた。
いまは自宅。今度こそ静かにしている。
危険信号はホンマもんだった。
インフルエンザ桿菌(ヒブ)による、肺炎・気管支炎・副鼻腔炎併発。
そして急性気管支喘息にまで発展。
38度の熱を発し続けていた入院直前、1歳10ケ月の息子も熱。
夫がせっせこがんばる。しかし。
「かぁか」と泣くため、夜中いっぱい驚愕の6時間抱っこ。
13kg抱っこしながらねじって咳。
再び肋骨ひび。メリって聞こえた。
辛過ぎて、記憶がない。
幸い息子はすぐに回復。
病院着いたわたしはゆでダコ状態。
頭から湯気出しながら、着の身着のまま救急病棟。
気づけば1週間。
白いカーテンレールばかり見ていた。

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