山へ

奈良の葛城山(かつらぎさん)に登ったのは1月末のこと。登ったといっても、”ケーブルカーに乗ってチョットそこへ”くらいのシティスタイルだったわたし。服装はショセのスニーカーにニシカのシャツパンツ。かろうじてアウターにRABのダウンと、インナーにヒートテック。ケーブルカーを降りるとまさかの雪山登場。引き返そうにも、下りの出発時刻は1時間先。甘かった。子は相変わらず抱っこか肩車。ショセのスニーカーで探り探り散策路の先を行き、滑らないかを確認。その後を、熊野本宮の「湯登神事」のようなスタイルの父子がゆっくり追う。無事に15分ほど登った頂上の山小屋では、本気登山グループとの見事なまでの場違い感。山は、いい。楽して登れど、スムーズに登れど、何かあるから。

さて、しっかりパンチ浴びておりました。仕事も育児も。

「ギリギリの3歩手前の余裕感」とかっこつけていたあの日が恥ずかしい。撮影もそれから13日連続へと続き、もちろん体調を見ながら合間に昼寝したり家事もほどほどにしたり、いろいろ調整していた。ところが、ついにあと30分でオールアップするという時に、子の方の糸が先にプチっと切れてしまったのだった。

プリントを修正して、そして編集部へ持っていく。その30分のためへの余裕がなかった。子はパンをわたしに小さくちぎってほしかったのに、わたしはプリントに見入って全く聞こうとしていなかった。何度も何度も言ってきていたのに。ちぎってやればよかったのに。ちぎってやれなかった。そうしているうちにバトンタッチに帰ってきた夫が、あっさりちぎってしまった瞬間、プチン。子はちぎれたパンを両手につまんだまま何かが溢れ出すように激しく泣き出した。もう何が何だか分からなくなったわたしまで声を上げて泣いてしまい、それを見て驚いた子が、さらに泣き続けた。こんなことは初めてだった。

この2週間安らぎがなかったのかもしれない。我慢していたのかもしれない。考え出すときりがないのだけれど、何かひとつに愛と情熱を注ぎ込んでしまうと、何かひとつはほころびが出る。熱い2月の日々にストップをかける出来事だった。しかし時間はない。あと30分が20分となりかけていた。 どうしても止まってはいられなかった。泣く子を背負ってでも出かけようとしたわたしを、夫はグっと引き止めた。ひとりでお行きと。いま、頑張れと。自分を取り戻したわたしは、グアアアアと叫びながら、プリントだけ抱えて出せる限りの力でなにわ筋を自転車で走った。ラボではオグラユウジが機械を止めずに待ち構えてくれていた。やる気満々のその姿がただただ嬉しくて、パチっと仕事モードへと切り替わっていた。そして、まだほんのり温かさの残るまま編集部へプリントを届けた。ふうううと一息。時計を見ると、予定時刻の5分を過ぎた頃だった。山を1つ越えた。

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Katsuragisan , Nara / JANUARY 2012

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Katsuragisan , Nara / JANUARY 2012

毎日はバトンタッチ

明日で取材撮影10連続。熱なし、咳なし、体調よし。10日間休みなしなど、産後初めてくらいかな。新しいお仕事は久しぶりの雑誌ワークで、渾身のスピード感と想像以上の愛と優しさに包み込まれている。自転車とか使って。休憩も小刻みに挟んで。その間にはいつもの大切な住居と学校の撮影に行ったり来たりしながら、スイッチも切り替えて。緊張と緩和の繰り返し。これ、本当に技術がいる。さあ、そんな中で育児のスイッチはというと、相変わらずいっぱいいっぱいである。こちらの技術はよく分からぬ。ただしかし、2年と7ケ月を経て、ちょっと違う段階に入ってきた感覚。

夫が東京出張に出る日などは、緊張と緩和の間に恐怖まで挟み込まれてくる。それでも「やってみよう」というのが今までとちょっと違う。保育園送って、取材に行って、保育園迎えに行って、奈良から来てくれた義母にバトンタッチして、また取材に行って、1時間15分後にまたバトン受け取って風呂入れて寝かしして、洗濯干して明日の準備してという一日。取材中に保育園から電話などかかって来たら?義母が来れなくなったら?いろんな「もしも」を想定して次の手を打っておくにも限界があり、とりあえず念力で乗り切ってみたりしている。ゆえに、乗り切った日の達成感たるやすさまじいものがある。合間に挟み込まれる子の姿にも、何とも言えぬ感情がこみ上げてくる。必死に自転車を漕ぐ朝には「がんばれぇ〜、かぁか〜。」という小さな声。撮影に向かう自転車を漕ぐ夜には、義母に抱かれた窓越しから振り続けている小さな手。そこへの罪悪感も不安感も切なさも悲しさもない、明るい感情。

今日も夫とバトンタッチ。撮影から帰って、買い物挟んで、焼きそば作り置いてわたしは編集部へ。夫は仕事場から保育園へ迎えと焼きそばを食べさせるのと風呂の準備。19時15分に帰ったわたしとすぐにバトンタッチで夫は再び仕事場へ行きそのまま深夜で、わたしは半ば放心状態のまま風呂に入れ、放心状態のまま電車の映像を見せながら寝かし付け。これでも、今日はぎりぎりの3歩手前くらいの余裕感。

このまま元気でいたい。そのために今夜もストレッチ。ストレッチはよい。オリジナルのストレッチコースが出来つつあり、日々の緊張をほぐしている実感がわいてきた。ぎりぎりでもいっぱいいっぱいでもいいから、バトンを受け取れる身体を作っていきたい。山で思ったのだ。そう、先日、家族で山に登ったのだ。山の空気、山のお土産話はまた、こんど。

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出発の予感

肺の検査。ついに良い結果が上がってきた。

肺活量の検査では、2ケ月前までの肺年齢47歳(+14歳)から一気に34歳(+1歳)へと回復。肺の炎症度も下がった。肺が回復してくると、当 たり前の事だけれど息がしやすいのだ。息がしやすいということは、疲労もたまりにくい。体力も維持しやすい。熱も出にくくなったし、咳もほとんど 出なくなった。心も安定し、穏やかになった。

ここまで8ケ月。長かった。本当に長かった。
そして、本当に息、しんどかった。

喘息用の吸入、発熱時の投薬以外は病院からはお薬は出されなかった。
自然治癒でがんばれ方針だった。

青汁飲んだり、養命酒飲んだり、鼻腔洗浄したり、よく寝たり、よく食べたり、よく笑ったり、酵素入り入浴剤であったまったり、無理な家事しなかっ たり、お弁当にしたりお惣菜にしたり、タクシー使いまくったり、夫に頼ったり、父母や義父母に頼ったり、友人に頼ったり、プレゼントもらったり、 お札もらったり、お守りもらったり、妹とアート見たり、仕事を調整してもらったり、保育園のみなに応援してもらったり、そうした細やかな出来事を ひとつひとつ意識しながら積み重ねてきたら、ある日フっと。そしたら最後に身体はどうしたか。身体は勝手にストレッチをはじめたのだった。筋肉の ダンス、血のダンス。筋肉も血もそれはそれは楽しそうに踊り笑っている。そんな感じがしてならない。この2週間、毎日毎晩10分間。

明日からしばらく、新しいお仕事がはじまる。どきどきして夜中に急に目が醒めたり、そんな時にかぎって保育園の節分イベントで鬼が恐ろしすぎて軽いショックを受けた息子が夜泣き出し2時間 抱っことかいろいろあるけれど、肺がこんなに軽いなら、がんばれる。がんばれることが嬉しい今日この頃。油断大敵。いってきます。

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