わたし、ひとり旅に出る/日の出

さあ、まだ一歩も踏み出していない。ただただ鳥居の下で、「過去の記憶を細部まで再生」(雑誌『日経ヘルス2011年8月号』に寄稿されていた、思想家であり武道家でもある内田樹先生のお言葉)していただけ。この作業は先生のおっしゃる通り、確かに「低刺激環境」(引用同上)へ我が身を置く事ができ、穏やかな気持ちへと導いてくれた。これから「高刺激環境」(引用同上)へと突入するわたしには必要不可欠なことだったのかもしれない。尖り(とんがり)ガールの写真とカメラのその後のお話は、またあらためて巡ろうと思う。いまはとにかく、時を戻して行かねばならぬ。

どちらの最強パワースポットにうかがうかは、もっとも呼び寄せていた京都市美術館に決めた。この時、館前には青いコーンに沿って続く長蛇の列と1時間待ちのプラカード。『フェルメールからのラブレター展』への列だった。17世紀の光を描いたオランダの巨匠。観てみたかったけれど、1時間も待ってらんない。仕方なく、同時開催中の『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展-印象派・ポスト印象派奇跡のコレクション-』へと歩を進めてみることにした。せっかく”いらっしゃっている”先生方の日本初上陸とやらを拝見しないのも、何だかもったいない。看板の「この顔、初来日。印象派オールスター☆夢の競演」という暑苦しいキャッチコピーが、妙にわたしを呼んでいる。顔といえば、自画像や肖像画。つまりはポートレイトである。近々、松山でワークショップをする内容にも何かヒントがあるかもしれないと、ちょっとだけ期待が湧いてきたのだった。

すんなりと入れた会場。殺気立っていない、穏やかなムード。薄暗い中でも、わかりやすい導線と構成。いつの間にか”ふ〜ん”から”ふむふむ”へと変わっていた。一発目がクールベの風景画というところからも、どうしたことか惹き込まれる。モネもルノワールもドガもピサロも、セザンヌもゴッホも、スーラも、何だかどれもこれもいい。急上昇する心のテンション。一体、いままでわたしはどこの何を観てきたんだと、軽くショック。もう順番通りになんか観てらんない(その場の学芸員さんも、自由に往来してよいと言っていた)。あっち観てこっち観てもう一回あっち観て。ふと見ると母も同じような動きをしていた。そうしているうちに、自分は何を見ているのかに気づいたのだった。

それは、こどもたちの姿だった。

色とりどりの光。何の恐れもない世界のように見えた。大きな何かに守られているような。フランス19世紀後半はこんなにも輝いていたのか。戦争も、革命も、ナポレオンも、感じさせない。澄み切った、自由。よく言われる「なぜ日本人は印象派が好きか」が、はじめて体感としてわかった気がした。子を産んだからだろうか。大きな見えない負のエネルギーが日本を覆う”いま”だからだろうか。こどもを守るためには、その大人たちが守られなければならない。印象派絵画の中には大人が安心する大人をもが、描かれているのだった。

そうして観て行く中、出会ったのがクロード・モネ1873年の作品『日傘を差す女(モネ夫人)』。超有名どころのひとつなのだろうが、はじめて観た本物。画像で観るものとは破格に違う色彩と奥行き。スナップ写真のような、一瞬を切り取った肖像画。晴れ間の少ないパリには珍しい強く明るい光と風。順行で輝く光を描くことの多い印象派の中で、それをダイナミックな逆光という手法で描かれている。凛とした佇まいのモネの妻カミーユ。そして後方に、息子のジャン。カミーユの顔はほとんど影となって見えない。ジャンはついでにくらいの置き方。その表情もはっきりとは見えない。ただ、わずかに微笑んでいるように見える妻と子の姿。その何とも言えない絶妙な距離感。それは同時にカミーユ自身のこどもとの関係のような。3人の家族の風景が、暮らしが、愛情が、みるみるうちに胸に飛び込んでくるではないか。まさにわたしにとっての『印象、日の出』。第三の光が降りてきた瞬間だった。横では見知らぬおばさんが一人、泣いていた。

その後のことは、あまりはっきり覚えていない。
今思い返しても浮かび上がってくるのは、写真に撮った断片ばかり。

日の出クールダウンに母と寄った京都会館2階の古びたカフェテリア。天井から吊り下がる妙に長い照明の数々。オレンジのエプロンのじいさんがヨレヨレと出してくれたカフェオレ。母が店頭にないのに頼んで作ってもらった揚げパン3つ。母2つ。わたし1つ。岡崎から烏丸まで徒歩での帰路。普段ならすぐタクシーなのに。わたし、しんどくない。右手に通過する、10数年前はじめて作った名刺屋さん「十分屋」。活版印刷100枚5000円。左手に通過する、鴨川。高瀬川。ディナーは父と母とブライトンホテルでフレンチ。ずっと絵の話。家族の話。息子の話。朝が来た。用事に出かけた母。父と妹と最後にランチ。西陣の蕎麦屋「にこら」。かけそばと季節の天ぷら。京都駅前。手を振る父と妹。新快速の閉まるドア。旅が、旅が、終わってゆく。

2日ぶりの大阪は雨だった。

奈良から帰ってくる夫と息子を迎えに、傘を持って近くの駅。
息子が、あがってきた。
階段をよいしょよいしょとあがってきた。
自分の意思であがってきた。
いつもなら抱っこ抱っこが、小さな成長を見せている。
横で見守る夫。
大きく両手を開いて、じっと待つわたし。

旅が、旅が、ほとんど「ひとり」じゃなかった旅が、終わってゆく。

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わたし、ひとり旅に出る/光

咳なし。熱なし。腰よし。体調よし。四条烏丸から東へ進む。いつの間にか横では父がハンドルを握り、後ろでは母がワクワクしている。ルーツを巡る旅に同行するという母と、行かねばならぬ場所まで送ってくれるという父。いいのか、これで。旅は道連れとはいうものの、あっという間に「ひとり」終了。そしてあっという間にその場所に到着した。

行き交うタクシー、バス、観光客。橋の上で立ち並ぶ山伏たち。お客待ちの人力車。電線のない空。整備された緑の茂み。京の美術発展の拠点となった左京区・岡崎。北に平安神宮、西に府立図書館と京都国立近代美術館、東に京都市立美術館、南にそれらを区切るようにそびえ立つ大きな鳥居。昭和の頃から、ほとんど変わらない、その風景。日本そして世界中のあらゆる場所からあらゆる歴史をかいくぐって集まってきた美術作品たちの、あらゆる「気」がどの方向を向いてもやってくる。何も見えないけれど、ゴッホが、フェルメールが、ルノワールが、生け垣に座っていたり、たばこを吸っていたり、突っ立ってたりする。確実に、”いらっしゃっている”。スピリチュアルにも宗教にも興味はないけれど、あえて言うならわたしにとっての最強パワースポットなのだ。

そもそも美術館なんて、薄暗いし変な匂いするし人多いし見えないし、つまらなかった。それでもと、幼いわたしを連れ出していたのは新聞記者として美術欄などを書いていたことのある祖母(母の母でわたしが学生の頃に他界。母の父は50代で他界。祖父もまた京の新聞世界に大奮闘しながら、趣味は絵画コレクション、引退後の夢は画廊だったそう)。忘れもしない、つまらないものから一変させてくれたのが、1992年京都国立近代美術館での展覧会『オーストラリア絵画の200年-自然・人間・芸術-』展だった。オーストラリアと言われても作家の名前さえいま誰一人言えないくらい、当時も大きく盛り上がっていたわけでもなく普通にスマートな展覧会。そこに展示されていたものは、200年前から現代に渡る自然と暮らしの風景絵画が中心だった。オーストラリアの強い光の中での馬と羊との生活風景。牧歌的風景とはこういうことなのか。それまで薄暗かった美術館を初めて明るく感じた。そして、光というものを表現できることを知った最初の瞬間だった。

もちろん、わたし、画家になると思っていた。

家でも外でも美術や芸術に触れまくっていたがゆえに、幼稚園も小学校も中学校も絵が得意で、とりわけ空想画は半端なかった。小学生の頃、B5サイズの自由帳にBBビルという架空の100階建ビルに毎日1階ずつその人間模様を描いていくと、いつの間にか毎日人が集まってくる大人気エンターテイメントに発展した。運動会、発表会、歯磨き週間、なんでもかんでもポスターは手描きで担当。100枚は描いたと思う。公募展では常に特選入り。だんごむしの地下の世界を描けば、なぜか視察に来ていたシンガポール大使館の人に献上されてしまった(返してほしい)。幼稚園時代から「芸大に行く!」が夢だった尖り(とんがり)ガール。

しかし、挫折はあっさり高校生でやってきたのだった。

どうしても描けなかったのだ。デッサンが。「それをそのまま描く」なんてどうしてもできなかった。一滴の興味もなかった。美術室でひとり、呆然とした。なぜなら、日本の美大・芸大では大概が(いまはよく分からないが)入試にデッサンが必要だったから。在籍していた普通科文系2類は進学コースで、入ってすぐから周りでは国立大学や公立大学への受験ムードがあった。美術専門の高校に進むという手や予備校に通うという手もあったのだろうが、幅広く勉強することを優先していた。それもこれも含めて、ポッキリ心折れた尖りガール。そしてそのまま高校3年の秋が来た。教室に戻っても、話が合わないためもう誰にも声をかけられず、弁当もひとりで食べ、ふらふらと行き着いた先は、図書室の中の特別閲覧室という謎の倉庫だった。普段は滅多に人が入らない、鍵のかかった部屋。それを何て言って開けてもらったのかは忘れてしまったのだけれど、入っていきなり引き寄せられたのが、シュールレアリスムの巨匠ルネ・マグリット先生の巨大な画集だった。薄暗い窓のない部屋だったはずなのに、完璧な第二の光が降りてきた瞬間だった。

決まった。描くことをあきらめ、観ることにする。

尖りガール、再びエッジを立たせ、芸大の芸術学コース(観たり、お話したり、文章を書いたり、哲学したりするコース)に進学を決め、入試面接では持ち時間を1時間オーバーするまでマグリットについての熱き思いをぶつけ、ぎりぎり補欠で入学が決まったのだった。20世紀美術というお湯に肩までどっぷり浸かった10代最後。視覚や思考の揺さぶりに心酔していた。古典的な宗教絵画や具象絵画には見向きもできないくらい。少し新しい印象派までも。モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ。のちのポスト印象派ゴッホ、ゴーギャンなどなど。ザ・絵画に、端から端まで”ふ〜ん”だった。と、同時に 視覚や思考の揺さぶりに拍車をかけるように出会ったのが写真、カメラ。尖りガール、最大級のエッジを持って、キャンバスではなく印画紙に光を描く手段を得ることになったのは、もう言うまでもない。

(つづく/次回最終回)

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わたし、ひとり旅に出る/一息

ふたたび「ひとり」の午後1時半。天気よし。風よし。湿度よし。腰よし。体調よし。遮るものなし。夫、どうしてるだろうとか、息子、どうしてるだろうとか、全然よぎらない。さあどうするどうなる、ひとり旅。

ふと視界の上の方に入ってきたのは、2年前にオープンした大垣書店の四条烏丸店。まだ入ったことはない。道路側に面したガラス越しに設置された8つほどの椅子には、「売り物の」本を読む人で満席だった。買わなくても座って読んでいいシステム、いつから導入されはじめたんだっけ。ついに大垣さんもなのかと、ショックだったり納得だったりしながらエスカレーターで店内へと上昇。向かった先はあるのかないのか分からない芸術書コーナー。あったあった。そうそう、この感じこの感じ。畳一畳分くらいの壁面。その小さなスペースにセレクトされたものを各書店に見に行くのが高校3年くらいからの楽しみだった。畳一畳では飽き足らない時は、今はなき堀川御池の美術書専門出版社「京都書院」で現代美術全集『アート・ランダム』に一冊ずつ出会った(100巻ほどあるのだ。編集は都築響一さん。のちに『TOKYO STYLE』を刊行され、住空間撮影に衝撃を受けた一冊となった。それもここで。「何でもやるなら100やれ。」という都築さんの言葉がいつも頭のどこかにある。)。そして学生の頃は、店全体が芸術書みたいな一乗寺の「恵文社」へ頻繁に寄っていた。ギャラリー勤務時代は、大人の町三条木屋町の大人のアート書店「MEDIA SHOP」を端から端まで眺めたり、憧れたりしながら、現代美術や建築の本に触れていた。あの頃、大型書店だろうが何だろうが、店で座って読むなんて考えられなかった。時代は変わったんだ。

そんな事を思い返しながら、いつの間にか手には写真家・藤代冥砂さんの家族写真集『もう、家に帰ろう2』。すり切れたサンプル本を、立ったまま見入っていた。前作『もう、家に帰ろう』は妻であるモデルの田辺あゆみさんとの結婚生活。これはそこから妊娠・出産・長男の成長と生活。5年間の記録。幸せとか、喜びとか、美しさとかに共感するでもなく。息子と重ね合わせるという感じでもなく。比べるという感覚でもない。心捕らえたのは、小さな龍之介くんの身体にアトピー、喘息の発作と入院、自宅での吸入の風景。240ページの中のたった3枚から広がるその見えない向こう側。子を育てること、子を守ることの不安や葛藤がそっと、いや強烈に向かってきたのだった。思わず目頭の湿度が急上昇。残りの237ページではない、そこに出会えるようになったこと。畳一畳のあの頃には、確実になかった視点。わたし、変わったんだ。

もう満足してしまいそうだった。映画とランチと本屋に行っただけなのに。これからが旅の本番なのに。わたしには行かねばならぬ場所があるのに。

まだ、家には帰れぬ。

(つづく)

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