AUTTAAのおふたり

東京で靴と革小物製作を続けておられるAUTTAA(アウッタ)のおふたり。奈良での展示受注会から東京へ帰られる合間を縫って、会いに来てくだすったのが夜7時半。夜9時40分発の高速バスに乗るというのに、9時ぎりぎりまで。どこかでお茶する時間もなく、1階の喫茶店カルチェラタンさんにミルクティーとブラッドオレンジジュースをアトリエに届けてもらった。

「甘くない手づくりの品」という彼女たちの製作コンセプトが、すごく心にググっと来て、それ以来、いつかチャンスあらば会って話がしてみたいと思っていた。革小物担当のaonoさんの初期の「キーケース」(まだAUTTAAとして活動されていない時の作品)を発注したのがもう3-4年前で、それから毎日首から下げているうちに革が自然と自分に馴染んできた。この邪魔にならない飽きない染み染み感はなんなんだろう。靴担当のaraiさんとふたりでの活動はどうやって組み立てているんだろう。知りたい知りたいと、暑苦しいくらいに食い入っておふたりを見ていた。そしたら、見えてきた。おふたりそのものが「甘」すぎない距離感で、自然な時間と空間とともにアウッタ(助ける)されているんだということが。

助け合うことって、簡単そうに見えて、すごく難しい。仕事でも何でも。育児の助け合いの最小単位「夫婦」でだってそう。我が家は仕事も家庭も育児もぜんぶ一緒で、特にわたしが撮影で夫がアシストという現場も少なからずあって、そういう場では絶妙にうまくやれているのに、なぜか育児に入るとイマイチバランスを取れなくなる時がある。分からないとか、不安とか、しんどいとかが絡まり合って、毎日ジェットコースターなわたくし。並走するにもできずらいであろうに。並走が無理でもどうにか同じトラック上を走っていられたらばと、日々反省しながら願い、そして研究している。

いまなお余震の続く、不安定な東京という地から寄ってくだすったというのもあるのかもしれない。AUTTAAのおふたりを前にして感じた「甘」すぎない距離感に、不思議といろんな不安が消えていた。今日も首から下げたキーケース。我が家のドアの鍵をゆっくり開けたい。

AUTTAA(「Item」に新作イロイロ。キーケースも。)

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under the sun

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“THE ESPERANZA shoes laboratory” honmachi , osaka / SEPTEMBER 2010

京都スイッチ

まだ撮影に走り回っていた臨月間近の時、だんだんと自分の身体の変化に不安とセンチメンタルが押し寄せてきて、その時駆け込んだのは編集集団140Bのオフィスだった。まだ中之島ダイビルの中にあった時で、編集者の青山ゆみこさんがお忙しい合間を縫って、わたしの”編集”をしてくださった。その時に出た言葉の1つが本にもある「青春の終焉」。産むって、そういうこと。カメラマンであるわたしとか、写真家であるわたしとか、仕事をしているわたしとか、そういう自我がきっと絶対変わるという恐ろしさ、なくなってしまうんじゃないかという恐ろしさが押し寄せてきていることに、気づかせてもらった。心はむしろ、なんだかすっきりしたのを覚えている。

その時、オフィスに積み上がっていたのが1980年代のエルマガ別冊「シティマニュアル」特集。のちに現在も刊行中の『ミーツリージョナル』になる伝説的雑誌。それがポンと置いてあるではないか。しかもその編集者でありミーツ黄金時代を築き上げられた江弘毅さんが中島淳さんとオフィスの向こうで何かについて「どや!ええやろ!」とドデカイ声でトークされている。やまほど青春されてきたであろう方々。そしていまも青春真っ盛りとしか見えない。すごい。青春が終焉したら、また違う色の春を生きようではないか。街に出よう。そう思ったのだった。忘れかけていた。

アイデンティティの揺らぎを楽しく抱えて、ちょっくら京都に帰省してきた。
ついでにプジョ−205CTIも、ついにクライマックス。預けてきた。

帰るなり、母には先日の家計簿の記事について「しみったれたこと書いてからに。」とチクリ。母の笑顔と、わたしの青春が詰まった本棚を前にすると、だいたい京都スイッチがパチっと入る。(ちなみに今日もミンチでカレーです。)母は本当にマッチョで根性キマっているので、もうすぐ60歳でも片腕で14kgの息子を抱っこしながらガンガン歩いてくれる。日曜日には町内の地蔵盆でフルに働いていた。わたしも息子を連れて20人くらいの子どもたちに揉まれてきた。完全に固まっていた息子も中3のシンジくんという男の子だけには心を許したようで、福引きでもらったブロックで新幹線やら飛行機やら作ってもらっていた。シンジくんは3人兄妹の長男でいま受験生。忙しいながらも年に一度の地蔵盆が密かに楽しみなんだけど、一番年上になるから恥ずかしそうに出たり入ったりしていた。でも、息子が喜んでくれるからと1時間くらいずっとつきあってくれて、「ほな、さいなら」と勉強に戻っていった。と思ったら、家の2階から息子の様子を覗いてくれていて、あんまりにも覗き込みすぎて網戸はずれて焦っていた。

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アイデンティティが迷走中

数時間だけ京都橘大学の定期広報誌『Tachibana Being』の表紙撮影へ。30分を3セット。間に休憩時間を頂いての超慎重モード。こんな今のわたしを、それでもと受け入れてくださる皆様に胸が熱くなる。7年間の積み重ねと安心感。馴染みの場所と馴染みの人々。これらがなければ踏み出せてなかった。入院療養中は孤高の写真家オグラユウジくんが、引き継いでくれたりもしていた。猛暑とか、蒸し暑いとか、そんなの吹き飛ばして今日はやってみようと思った。髪の毛を伝って滴り落ちる水滴が、涙でなく、今日は汗だった。なんと幸せなこと。だけどもやっぱり悔しいけれど、1セット30分が限界。1セット2時間に戻れるまであと、どれくらいかかるんだろうか。

京都の山の手は猛暑ながらも、盆地部分に比べれば少々楽に感じる。大阪の自宅はマンションということもあってか、大阪湾からの風が抜けて、さらに快適さを実感する。実家はほぼ盆地のど真ん中。隙あらば「抱っこ」を引き連れて帰省した4日間は、何度「暑い暑い」「蒸し蒸しする」「蚊多い」「京都しんどい」を発したことか。すっかり大阪人だ。27年間一歩も”ヨソ”で暮らしたことないまま、結婚して、あれだけ「大阪行くのイヤだ」とのたうち回っていたの誰だ。ホームシックになって、京都で仕事なんぞあらば数週間帰らなかったの誰だ。町内中に「出戻りやありまへんえ」と言いながら何度も何度も戻ってたの誰だ。

大阪生活5年目でようやく慣れてきた今日この頃。それもこれもすべては人。京都とはまた違う種類の「今」を分かち合える友や店に出会ってきたこと。息子の出現によって、知らず知らずそれらは点から線となり、さらに輪郭をおびていった。馴染みの服屋さん、馴染みの植物屋さん、馴染みの散髪屋さん、馴染みの雑貨屋さん、馴染みのパン屋さん、馴染みの修理屋さん、馴染みの八百屋さん、馴染みのお医者さん、馴染みの喫茶店、馴染みの道、馴染みのご近所さん。染み染み染み染みと染み込んで、わたしのもう1つの街はそうして出来上がってきた。

これから一体どうなるんだろうか。わたしは。街は。人は。日本は。

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大阪ラスト・ラン

今夜、身体の三分の二が疲れている。あと残り三分の一。
いつもの文章は午前中か正午前後に書いているのだけれど、土曜日から息子夏休みにつき、そんなの絶対無理。隙あらば「抱っこ」の息子が、身体中にへばりついている本日4日目。

京都行き間近のプジョー205CTIに乗って、半日休みの夫と3人でIKEA鶴浜に行ってきた。朝10時半入りの昼1時半上がり。大阪ラストラン必至の今日の日に、片道わずか20分のランが限界だった。なんせクーラーつかないのだから!オープンカー仕様のこの車は屋根が幌。命の危険さえあるため、簡易のクーラーボックスに保冷剤を山ほど入れて、首に巻いたり、脚の付け根に置いたり、くつ下も脱いでのサバイバルである。

昔、『エルマガジン』(京阪神エルマガジン社)で取材をさせて頂いていた時、編集者の竹内厚さんや、当時の編集長だった蔵さんなどもこの車に保冷剤付きでご乗車されたことがあったと思う。蔵さんの時は大阪の長堀通りの真ん中で一瞬エンストしたりもしたのに、何にも動じず、普通にそのまま話し続けておられた。竹内さんとはIKEA六甲のオープニングに「密着14時間」というIKEAに詳しくなりすぎてしまう取材をご一緒させて頂いたんだった。おかげで一瞬、IKEAの社員になりたくなってしまったんだった。竹内さんは隙あらば社員用のマッサージチェアに乗って、寝ておられた。そういう人たちがやっぱり、面白いことを支えているんだなぁ。

1992年式のプジョー205CTIはこの12年間の中で、正直言って最も調子がよい。エンストしないし、煙でないし、扉閉まるし、液体漏れてないし、電気漏れてない。極めていい状態まで持ち直してくれた、大阪のプジョーサービス工場の技術者達が近くにいてくれたから今がある。何度も引っ張ってくれたJAFさん達がいてくれたから今がある。パリ帰りに何を血迷ったか20歳の娘が「プジョーに乗りたいヨ。」と言ってすぐに面白がって一緒に探して買ってくれた父と、それを見守ってくれた母がいたから、今がある。この車があったから、写真ができた。

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